天正14年(1587年),薩摩国の島津氏の侵攻を受けた豊後国の大友宗麟は豊臣秀吉に窮状を訴えた結果,秀吉は九州征伐を決意する。
同年,島津家久が豊後国に侵攻,大友氏の持城である鶴賀城に攻撃を仕掛ける。
これに対し,秀吉配下の仙石秀久を主将,配下に長宗我部元親・信親親子,十河存保らを加えた救援部隊が戸次川に布陣する。
この際,秀久は即時同川を渡河し攻撃することを主張,これに対し元親は加勢を待ち,その上で戦いに及ぶことを主張,意見が対立する。
結局,存保も秀久の意見に同調,渡河することに決定となり仙石勢は出陣することになる。
しかし,攻撃を主張した先陣の秀久の部隊は島津氏の軍勢に不意をつかれ敗走,その結果,元親・信親親子の軍勢が孤立,そのまま島津勢が戦闘状態に突入してしまう。
そして,乱戦の中,元親・信親は離れ離れとなり,元親は戦場から何とか離脱することに成功するが,信親以下約700名は島津勢の猛攻の前に戦死,また,存保も戦死してしまい,救援するはずの鶴賀城もついには落城してしまう。
戸次川の戦いでは,両軍合わせた約4000名以上が討死したとも言われている。それだけ多くの血が流れた同地では,今も鎧武者の幽霊が目撃されたりするのだと言われているそうである。