土気城は千葉県千葉市に存在していた平山城である。
同城の築城年であるが,神亀年間(724~729年),大野東人により築城された貴船城がその起源とされており,そのためか,土気城にも貴船神社が祀られていたのだという。
鎌倉時代,同地は千葉氏の勢力下に組み込まれていたが,やがて千葉氏の流れを汲む土気氏が同地の地頭職を得て土気城を居城とすることになる。
室町時代後期になると,土気城は大関城主畠山氏の勢力下になるが,長享元年(1487年),酒井定隆に奪われ,翌年より酒井氏が入城,以後約100年に渡り,同城は酒井氏の居城とされた。
さて,同城では,永禄7年(1564年)に発生した第二次国府台合戦において激しい戦いが繰り広げられた。
この戦いは里見氏約1万7000,北条氏約2万の軍勢により繰り広げられた合戦たのだだが,酒井氏は里見氏に組したため土気城を北条氏の軍勢に攻められている。
この際,搦め手のクラン坂から北条氏の軍勢が攻め寄せたが,酒井氏は良く守りこれを撃退したという。
後,酒井氏は北条氏に降り,天正18年(1590年)に発生した小田原征伐では北条氏と運命を共にし,その際,土気城は豊臣方に接収,そのまま廃城にされたようである。
ところで,現在同城には上記のクラン坂を始めとし,城に関する遺構が残されているが,城跡ないしその周辺は,地元では心霊スポットと認識されているようで,この付近は落ち武者と思しき武士の幽霊が多いのだと言われている。
もしかすると,第二次国府台合戦の戦死者の幽霊が今も彷徨い続けているのかも知れない。