正平7年/文和元年(1352年),南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が信濃国,新田義興・義宗らが上野国で,北朝方の足利尊氏方を倒すためそれぞれ挙兵した。。
これは,前年から繰り広げられていた,尊氏と弟・直義の間の観音の擾乱の間隙を付いたもので,新田軍は笛吹峠に陣を敷き宗良親王と合流,武蔵国各所で足利軍と戦うが敗北してしまう(武蔵野合戦)。
一連の戦いにおける最後の決着がついた場所が同峠で,敗れた義宗らは越後国へ,宗良親王は信濃国へ逃亡,尊氏はこれを機に関東を制圧する。
同峠ではかなり激しい戦闘が繰り広げられたらしく,同峠の道路工事をした際,大量の人骨が出土したと伝えられている。
そして,現在,この峠を通行する者の中には,目の前を横切る落ち武者の姿を目撃したという話もあるそうである(なお,同峠は,落ち武者だけではなく,近現代のものと思われる女性の幽霊などが現れるといい,昭和後期まで,同峠では首吊り自殺が多発に発生したのだという。)。