元弘2年/正慶元年(1332年),鎌倉幕府転覆を企てた後醍醐天皇は隠岐国に配流,同地の守護・佐々木清高に幽閉される。
清高の監視は厳しかったが,翌年,天皇は脱出に成功,船で出雲国を目指すが風に流され伯耆国に漂着してしまう。
ここで,天皇は同地の地頭・名和長年により保護,長年は天皇を奉じて守備に適した船上山にて挙兵する。
一方,天皇に逃げられた清高は奪還のため手勢を率い同山へと攻め寄せる。数に劣る長年であるが,山中の木々に旗をくくりつけて数多くの手勢がいるよう見せ掛け,時折矢を放つという攻撃を繰り返し牽制,その結果,清高方の大将・佐々木昌綱の目に矢が当たり戦死したほか,降伏する武将も現れてしまう。
そのような事情を知らぬまま清高は同山に攻撃を仕掛け続けるが,暴風雨に乗じた名和氏の攻撃に混乱,多くの兵が断崖から落ちるなどの損害を受け,結果,清高は自領へと撤退したという。
この戦いでは数多くの戦死者が発生したと言われており,そのため,現在同山を訪れると落ち武者の幽霊が目撃されると言う話が有名なのだそうである。
また,生首だけの幽霊がいた,山中にいた人に声をかけると姿を消した,等という怪奇現象もあるのだと言われている。