養老4年(720年),九州南部において隼人がヤマト王権に対して反乱を起こす。
これは,ヤマト王権の支配が未だ十分及ばない九州地方に住んでいた「熊襲」や「隼人」と呼ばれる住民のうち,隼人が大隅国国司・陽侯麻呂が殺されたことに端を発したものである。
この反乱では,隼人側は約数千の兵を集め7ヶ所の城に籠城,それに対しヤマト王権側は約1万以上の兵を集めてこれを攻撃,約1年半近い戦いの末,隼人側の敗北で幕を閉じた。隼人側の死者と捕虜の数は約1400にのぼったのだという。
ところで,この反乱で戦死した者を祀る「隼人塚」が現在も複数存在しており,鹿児島県霧島市の国分重久にも残されている。
この隼人塚は,戦死した隼人の遺骸を埋めたとも首を埋めた首塚とも言われているそうである。
そして,この隼人塚の近くにある止上神社には慶長年間(1596~1615年)の中頃まで,「王の御幸」という祭りが行われていたそうだが,これは,この地で戦死した隼人達の怨霊が祟りをなして人民に害を与えるので,それを鎮めるために行われていたものなのだという。