今回,心霊スポット候補地としてご紹介するのは「戊辰戦争の戦場」である。
すでに,心霊スポットや心霊スポット候補地として,慶応4年/明治元年(1868年)に勃発した戊辰戦争関連の場所をご紹介したが,今回は,特に福島県内の戦場について,可能な限りご紹介したいと思う。
(過去記事 心霊スポット候補地 会津)
(過去記事 心霊スポット候補地 官軍墓地
①白河市
主に白河小峰城やその周辺である白坂口,白河口,稲荷山,雷神山等で攻防戦が繰り広げられた。
この際,旧幕府軍は会津藩副総督横山主税以下約700名の死傷者が,新政府軍は約20名前後死傷した。
②本宮市
本宮市は当時,二本松藩領内であり,新政府軍と二本松藩兵が主体の旧幕府軍の戦闘が繰り広げられた。
ア 本宮市糠沢村城之内の戦いでは,二本松藩士29名,農兵28名戦死した。
イ 高木・本宮の戦い(阿武隈川を挟んだ攻防)では,二本松藩士24名,農兵2名戦死,また,新政府軍では土佐藩士美正貫一郎戦死した。
ウ 本宮市仁井田,会津街道,雷神堂山の各地の戦いでは,旧幕府軍42名,新政府軍20名戦死した。
③二本松市
丹羽氏10万石の城下町である二本松市に対し,新政府軍は二手に分かれ攻撃,尼子平大壇口,阿武隈川付近そして二本松城下で戦闘が繰り広げられた。
結果,新政府軍17名,二本松藩218名(家老以下18名の上級職,13~17歳までの少年兵18名含む),会津藩39名,仙台藩19名戦死した。
④東白川郡棚倉町
棚倉方面では棚倉街道に旧幕府軍の砲台が設けられたが効果は薄く,また,街道沿いにある中野,磐沢,金山(正確には白河市表郷付近)で小競り合いが繰り広げられた模様(この際の戦死者は不明)。
そして,棚倉城は新政府軍の攻撃を受け落城,この際,旧幕府軍15名,新政府軍1名戦死,また,棚倉町古町以南は全くの原野と化すほどの損害を受けた。
⑤東白川郡浅川町
浅川町においては,棚倉城を落とし,さらに浅川の街中を占領した新政府軍と,町の北にある古舘山(旧淺川城?)に拠る旧幕府軍(仙台藩,二本松藩,会津藩)が戦闘,旧幕府軍16名(仙台藩兵),新政府軍2名戦死した。
⑥いわき市
茨城県にある平潟港に上陸した新政府軍は,そこから北上し侵攻することになる。
当時のいわき市には,磐城平藩,湯長谷藩,泉藩が存在していたが,いずれも小藩であり,仙台藩や相馬中村藩の援軍が来て守備していた。
ア いわき市植田付近(鮫川河川敷),同町八幡山,泉藩や湯長谷藩,内郷綴町堀坂,四倉町など,市内の複数個所で戦闘が繰り広げられる(損害は不明)。
ウ いわき市小名浜南富岡,二ツ橋付近(藤原川を挟んだ辺り)で旧幕府軍(仙台藩)と新政府軍が戦闘,当初は互角の戦いを繰り広げるが,新政府軍が小高い山から砲撃を加え始めると形勢は新政府軍に傾く。
そして,敗走する旧幕府軍を新政府軍が追撃,旧幕府軍は小名浜から中ノ作,そして四ツ倉まで敗走するが,最終的に64名戦死した。
エ 磐城平城の戦いでは新政府軍16名,旧幕府軍90名(磐城平藩58名,仙台藩7名,相馬中村藩25名)戦死した。
⑦双葉郡広野町
磐城平城を陥落させた新政府軍は北上を開始,いわき市四倉町,久ノ浜町を通過,広野町に至る。
ア 広野町末続に進出した新政府軍は旧幕府軍(相馬中村藩)の夜襲を受ける(損害は不明)。
イ 新政府軍,広野町亀ヶ崎にで旧幕府軍を攻撃,撤退させる(損害は不明)。
ウ 広野町南を流れる浅見川で両軍対峙,激しい攻防戦を繰り広げる。最終的に旧幕府軍が撤退する(一連の戦いで新政府軍12名,旧幕府軍13名戦死した。)。
⑧ 双葉軍浪江町
浪江町は相馬中村藩の所領であり,主に相馬中村藩兵が中心となり防衛に当たっていた。
ア 町内を流れる高瀬川対岸に旧幕府軍(相馬中村藩)が陣地を築いているのを発見した新政府軍は渡河し戦闘,旧幕府軍8名,新政府軍15名戦死した。
イ 浪江と幾世橋に陣地を築いていた旧幕府軍であるが,新政府軍の攻撃を受け敗走する(損害は不明)。
⑨相馬市
浪江町を攻略された相馬中村藩は,その後新政府軍に降伏するが,新政府側からの命令により,旧幕府軍(仙台藩)と戦闘することを命じられる。
新政府軍(相馬中村藩)は,相馬市黒木に駐屯していた旧幕府軍(仙台藩)と戦闘,新政府軍6名,旧幕府軍5名戦死した。
この戦いの後も,相馬市椎木,同市大坪付近で小競り合いが繰り広げられる(損害は不明)。
⑩相馬郡新地町
新地町は江戸時代までは仙台藩の領内とされていた。そのため,同町には仙台藩兵が展開し,新政府軍と戦うことになる。
ア 新政府軍は,新地町駒ヶ嶺に砲撃を加えられる相馬市椎木の高台に砲兵を集結させたほか,駒ヶ嶺東の海岸沿い(相馬市原釜~新地町今神~同町今泉),駒ヶ嶺西の新地町菅谷の三方に部隊を展開した。
対する旧幕府軍(仙台藩)も,新地町今泉,同町駒ヶ嶺,同町菅谷に部隊を展開したほか,さらに駒ヶ嶺と菅谷の中間にある曹善堂にも部隊を配置,戦闘が繰り広げられた。
この戦いは,砲撃戦と白兵戦が行われた激戦であり,最終的に旧幕府軍が駒ヶ嶺を失陥,新政府軍26名,旧幕府軍32名戦死した(第一次駒ヶ嶺攻防戦)。
イ 駒ヶ嶺奪還を目指す旧幕府軍は宮城県亘理郡山元町の坂元に終結,新地町今泉,同町駒ヶ嶺,曹善堂を同時に攻撃する。
この戦いでは,新地町藤崎,同町駒ヶ嶺,また相馬市初野で戦闘が繰り広げられたが旧幕府軍が敗北,新政府軍3名,旧幕府軍38名戦死した(第二次駒ヶ嶺攻防戦)。
ウ 再度駒ヶ嶺奪還を目指し,旧幕府軍は出撃するも,海沿いでは新地町今泉,釣師浜,大戸浜で旧幕府軍は壊滅的な損害を受けたほか,駒ヶ嶺や曹善堂でも敗北し,新政府軍12名,旧幕府軍98名戦死した(第三次駒ヶ嶺攻防戦)。
ここに記載した各戦闘は,あくまで戊辰戦争の中でのほんの一握りであり,もっと多くの戦闘が福島県内で繰り広げられており,犠牲者の数もさらに大きいものであったことが予測される。
また,戊辰戦争では,戦闘だけではなく,両軍が通過した村や宿場,そして城下町が放火され焼失した事実も忘れてはならない(略奪行為等も行われていたようであり,戦闘以外で死亡した者も数多くいたことが容易に予想できる。)。
こうしてみると,福島県内では数多くの犠牲者が両軍,そして民間人の間から出ていたことが推測される。
そして,これらの場所では,今も無念の思いを抱き,この世に現れる魂魄がいる可能性が否定できないと考えるものである。