福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

九戸城(岩手県)

 九戸城は岩手県二戸市に存在していた,中世の平山城で,別名福岡城とも宮野城とも呼ばれていて,昭和10年(1935年),国の史跡に指定されている。

 同城は同地方に勢力を有していた南部氏の支流・九戸氏の居城で,同氏の手に築城されたとされるが,正式な築城年は不明なままである。

 さて,九戸氏の当主が政実の時代,主君で宗家でもある南部氏(当主は信直)と対立していた。

 これは,南部氏の先代・南部晴政天正10年(1582年)に死亡,その後を嫡子・晴継が継ぐが,同人も同年中に急逝してしまう。

 そこで,晴政の娘を妻としていた南部一族の石川信直(晴政の長女の夫)と九戸実親(政実の弟,晴政の次女の夫)との間で後継者争いが本格化するが,南部家の重臣を味方にした石川信直が南部氏の後継者となることに定められてしまい,これをきっかけに,九戸氏と南部氏の対立が始まることになる。

 その後,天正18年(1590年),豊臣秀吉の朱印状により,南部信直が南部氏の宗家として公認,豊臣氏の大名として取り込まれると,九戸氏のような有力一族でも独立性が認められなくなり,宗家への服属を強いられることになり,結果,より一層九戸氏の反発は増すことになった。

 そして同年,小田原征伐と奥州仕置のため南部信直が出陣していた留守を突き九戸氏は挙兵,南部氏の重臣・南氏を討ち取り,家中にはさらなる不穏な空気が広がることになる。

 さらに翌年になると九戸氏は南部氏への反意を明確にし,5000の兵を挙げ,反九戸氏勢力に攻撃を仕掛けてしまう。
 九戸氏は南部氏の中でも精兵であり,また,折りしも南部領では一揆が発生したこと等の要因があり南部氏の力のみでは制圧できそうになく,ついには豊臣氏の支援を求めることにした。

 これに対し,秀吉は即座に制圧軍の編成を決定,数万の大軍が北上し,ついに九戸氏は居城・九戸氏に立てこもると,制圧軍は約6万の軍勢を持ちこれを取り囲んだ。

 九戸城は三方を河川に囲まれた天然の要害で,九戸政実は少数の兵でよく戦ったが兵力の差はいかんともし難く,ついには制圧軍からの「降伏すれば残らず助命する」という言葉に従い9月4日(旧暦)に降伏する。

 しかし,助命の約束は守られず,城内にいた者は二の丸に集められ全て惨殺,火をかけられたが,その火は三日三晩燃え続けたといい,以前は斬首された女性の人骨が発見されている。

 また,降伏し城を出た九戸政実以下首謀者達もまた処刑されている。

 その後,毎年9月4日(旧暦)になると,同城では鎧兜姿の武者達が恨めしそうな声をあげながら青白い炎の中姿を現し,その姿を見た者は3日3晩うなされた後に死んでしまうと語り継がれていたのだという。