福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

心霊スポット候補地(その9)

 今回,心霊スポット候補地としてご紹介する場所は「城跡」、特にそのうちでも「人柱」がなされたとされる城である。

 さて、日本各地には、かつて大小さまざまな「城」が存在していたのは周知のとおりであるが、これらの城の中には、かつて「人柱」を用いたのではないか、と囁かれている城が存在している。

 人柱とは、城や橋など、大規模な建造物等が災害や敵襲等により破壊されないよう、生きた人間を当該建造物の近くまたは直下に埋めたりする一種の人身御供を言う。

 実際に人柱を用いられたか、そもそも、日本に人柱という風習が存在していたのかについては賛否両論があり、まだその答えは出ていないのだが、ただ、上記のとおり、現在も人柱を用いたと囁かれているのは事実であり、さらに、一部の城では、その人柱にされた人物の幽霊が現れる、と囁かれている場所もあるのである。

 一例として、福井県のある丸岡城が挙げられる。

 現存する最古の天守閣を有する丸岡城は、天正4年(1576年)、織田信長重臣柴田勝家の甥である勝豊により築かれた城である。

 同城の建築時、原因は不明であるが、天守閣の石垣が何度積み上げても崩れるという事故が発生していた。

 そこで、次こそは完成させるべく、 神に生贄として人柱を捧げることになり、それに選ばれたのが、2人の子供を持つ、隻眼の「お静」という女性だった。

 お静は人柱になる条件として、2人の子供のうち1人を侍に取り立ててもらうこととし、天守閣の中柱の下にその身を埋められた。

 その後、天守閣は無事に完成したのだが、お静の子供は侍に取り立てられず、その約束は守られなかった。

 そして、お静の恨みがなせる業か、天守閣の内部にある木の階段部分には女性の幽霊が現れる、また、旧暦4月頃になると「お静の涙雨」と呼ばれる、お堀を溢れ返せる程の雨を降らせているといい、今でも地元の方々はお静の霊を慰めているのだという。

 さて、上記の話は他県の話であるが、実は、福島県内の城にも、人柱のを用いたとされる城が存在している。

 それは、「磐城平城」と「白河小峰城」である。

 磐城平城は慶長8年(1603年)、徳川幕府譜代・鳥居忠政が着工、慶長20年/元和元年(1615年)に完成した城である。

 同城を築城する際、堰を設けようと考えたのだが、いくら築いても堰は決壊、完成することはなかった。

 そこで、人柱を立ててはどうか、と進言する者がおり、忠政は領内に米寿を越えたものがいないか回状を廻した(米寿を越えた者がいなくなっても誰も困らないと考えた、また、人柱には年寄りを用いるため、とされている。)。

 やがて、菅波村に丹後という齢90を過ぎた老人がいることが分かり、忠政は丹後を招き寄せると、暗に「人柱になれ」と命じたという(丹後自らが人柱に進み出たとする話もある。)。

 その忠政の意気を感じた丹後は、自分が埋められた場所に「丹後沢」と自身の名を付けること、また、一人残る孫を侍の身分にすることを条件に人柱となり、ついに堰が完成、それが現在も残る「丹後沢」である。

 なお、丹後の孫・弥蔵は侍身分に取り立てられ山目付に任じられたのだが、その後、苛斂誅求で農民を苦しめ、「高久村騒動」を発生させる遠因を作っている。

 次に、白河小峰城であるが、同城は興国元年/暦応3年(1340年)、結城氏が築城したのがその始まりで、寛永6年(1629年)に丹羽長重が城郭の大改築に着手、寛永9年(1632年)に完成させた。

 さて、この改築の際、外堀の石垣が何度となく崩れる事故が発生した。そのため、人柱を立てることに決定したのだが、その人柱は、現場近くを通った最初の者、しかも身分の上下や老若男女の別なく選ぶ、というものであった。

 そして、たまたま父親を迎えに来た、藩士・和知平左ヱ門の娘「おとめ」が人柱にされることになった。

 おとめは逃げ回るが、最終的に捕らえられ、ついに白河小峰城の人柱とされてしまったのである。

 なお、現在も、おとめを偲び植えられた「おとめ桜」(なお、初代は戊辰戦争で焼失、現在は二代目。)が残るほか、藩士がおとめを追い回したとされる場所が「追廻」という地名で残されている。

 現段階で把握している福島県内の人柱に関する伝承はこの2例のみであるが、まだまだ私の知らない話が残っている可能性は否定できない。

 そして、仮にこの伝承が真実ならば、丹後やおとめの霊が成仏していない可能性も否定できないのである。