福島県心霊スポット情報

福島県心霊スポット情報

福島県内の心霊スポット(全国に拡大予定、まずは東北から。)の概要とその情報について,霊感ゼロの四十雀が独断と偏見を交えつつ解説したいと思います。

心霊スポット候補地

 これまで,福島県内を中心とした心霊スポットの紹介を行ってきたが,段々とそのネタも尽きてきた。
 そこで今回,「現在,心霊スポットと認識はされていないが,心霊スポットになる可能性がある」場所,即ち「心霊スポット候補地」というものについて考察・ご紹介していこうと思う。

 なお,私には「霊感」というものがないため,ここでご紹介する心霊スポット候補地は過去に発生したいわく等を元にして「候補地」としたものであり,幽霊の出没や怪奇現象が発生すると断言しているものではない点に留意していただきたい。

 とどのつまりは,あくまで「個人的見解」というものである。

 さて,今回ご紹介する場所は,「若松連隊駐屯地(兵営)」である。

 戦前,会津若松市(当時は若松市)が軍都であったことは現在あまり知られていないかも知れない。
 その歴史は古く,明治40年(1907年),歩兵第65連隊が,そして同連隊が大正14年(1925年)に廃止されると変わりに歩兵第29連隊が若松市(現在の城前町付近)に駐屯していた(この2つの連隊を通称「若松連隊」と呼んでいた。)。

 ところで,意外な話かもしれないが,当時の軍隊に関する心霊話というものは数多く残されている。
 では,具体的にどのような話なのだろうか,順を追って紹介していきたい。

 まず一つ目は,兵士が生活をする兵営にまつわる心霊話である。

 当時の軍隊での訓練や生活というものは,現在の我々には想像ができない厳しさがあった。

 例えば,兵士が銃口蓋(小銃の銃口用カバー)を失くしただけでも見つかるまで捜索させる,訓練終了後,上級の兵士からの私的制裁を日常的に受けるなど,陰湿な行動が多く取られていたという。

 そのため,兵営内において自ら命を絶つ者が出ることは珍しくはなく,その結果,「兵営内で銃口蓋を探しながらさ迷う兵士の幽霊」等の話が,全国各地の兵営でささやかれていたそうである。

 二つ目は,戦死した兵士にまつわる心霊話である。

 軍隊は戦争があれば戦地に赴くものであり,その結果,不幸にして命を落とす者が出るものである。
 そして,無念の戦死を遂げた彼らの幽霊が駐屯地や兵営に現れる,とされるのである。

 にわかには信じられないが,著名な話としては,一木支隊の話が有名である。

 一木支隊は昭和17年(1942年)北海道旭川に駐屯していた第7師団から編成された部隊で,一木清直大佐が支隊長とされたことからこの名前が付けられた。
 同隊は同年8月21日,ガタルカナル島でアメリカ軍と交戦,壊滅的な被害を受け,一木支隊長も戦死を遂げてしまう。

 しかし,その後,旭川の地では,軍旗をはためかせ行進し駐屯地へと戻り,そして忽然と姿を消す同隊の幽霊が目撃されたのだという(中には,家族の元に帰還した同隊所属の者の幽霊もいたのだという。)。

 さて,改めてこの2つの話を,若松連隊にも当てはめてみたい。
 まず,一つ目の話であるが,若松連隊駐屯地(兵営)において,兵士の自殺者が出た可能性というものは十分考えられるところである。
 ただ,残念ながらその裏付けを取ることはかなり困難である。

 次に,二つ目の話であるが,実は若松連隊,歩兵第29連隊もまた,一木支隊同様,昭和17年(1942年)にガタルカナル島に上陸,アメリカ兵との交戦(また,補給困難に伴う飢餓)により連隊長以下多くの戦死者が出ている事実が存在する。

 これらのことを考えると,若松連隊駐屯地(兵営)が心霊スポット候補地としての資格は十分に有しているのではないかと考えられる。

 なお,若松連隊駐屯地(兵営)は当然ながら現存はしておらず,その敷地の一部はどうも会津若松市立第二中学校として使われているようである(同中学校では昭和23年(1948年),若松連隊の兵舎を改装し校舎としていたという。また,現在も若松連隊時代の門柱が残されているようである。)。

 将校・兵士の怨念等が亡失したものか,残念ながら定かではない。