1 概要
昔,南会津の南倉沢に大蔵という狩人がいた。
ある日,大蔵は愛犬を連れ,三本槍ヶ岳へ鹿狩りに出たが,ことのほか霧が深い日で大蔵も道に迷ったところ,やがて大きな沼の前に出た。
大蔵はここに鹿が来ると直感し,鹿笛を吹いたところ,突然周囲に重くよどんでいた霧が流れ出し,沼の真ん中で水浴びをしている美しい女の姿が現れた。女は水に濡れた黒髪を両手で絞りながら,こびるような眼差しで大蔵を見てニッと笑ったが,大蔵もまた豪の者であり,こんな場所に女が居る訳はない,魔性の物であると気を取り直し銃を撃ち放った。
弾は確実に女の胸板を貫いたが,女はケタケタ笑っていた。大蔵はなおも二発,三発と撃ち放ったところ,一天にわかにかき曇り,大風が吹いたかと思うと雷が走り豪雨が降り始め,やがて女はみるみるうちに一匹の青白い大蛇の姿と変化した。
その姿を見た大蔵はさすがに総身粟肌となり,犬もまた怯え狂ったように吠え続けていた。大蔵はその場から夢中で逃げ出した。途中,湯のように温かい水溜りに転げ込んだが,そんなことに気についてはおられず夢中で逃げ,ようやく一軒の農家に逃げ込み,主人に救いを求めた。
大蔵の話を聞いた主人は,そんなはずはない,今日は朝から好天であったと取り合わなかった。
大蔵はそれでもその農家に一夜の宿を借り,翌日家に戻るとそのまま死んだように眠りこけた。帰宅後数日経過してようやく起き,囲炉裏に出て火に当たろうとすると,目の前の自在鉤に小さな蛇が無数に巻き付いて縄のようにもつれていた。
さすがの大蔵も大声を上げ叫んだので,家人が駆けつけたが,それらの者には蛇の姿は一向に見えなかった。
それからというもの,大蔵は自在鉤を見ると蛇がいると叫び,その様子は狂人のようであった。心配した家人は山伏を呼び祈祷したところ,これは沼の主が殺されたので,子蛇の恨みが目に映るものである。一日も早く沼の主を祀るようお告げが出たので,家人は早速沼に近い大峠に石の祠を建てて主の霊を慰めたところ,大蔵は子蛇の姿を見ることはなくなったという。
2 解説
三本ヶ槍岳は福島県と栃木県の県境にある山で,その北方に大蔵が訪れた沼(鏡ヶ沼)がある。この附近は難所であり,訪れるのは容易ではない場所である。
また,大蔵が転んだときに水溜りが温かかったのは,この附近に甲子温泉が存在しているからである。