1 概要
昔,源翁和尚という高僧がいた。源翁和尚は越後国萩村出身で,幼少の頃に陸上時に入り沙弥となり,七歳で倶舎論を論じ,16歳で剃髪,18歳で禅門に入り峨山禅師に師事し悟りを開いたという。
この源翁和尚は,那須野が原で大きな石(殺生石)と化した後も附近の草木を枯らし,動物を殺していた金毛九尾の狐を退治しようと同地を訪れ,経文を唱えながら藜(あかざ)の杖でこの石を打ち据えると,石は微塵に砕けて四方に飛び散った。
飛び散った石片の一部は会津にも飛び着て,その一つは土田新田村の土田墓地内に,もう一つは猪苗代湖と強清水の間にある大野が原に落ちた。
源翁和尚は,殺生石を打ち砕いた後全国行脚の旅に出ていたが,巡り巡って会津の地に差し掛かった。
そして,大野が原に差し掛かった頃,周囲はすっかり一日のとばりがおり,見渡す限りの原野には真っ白な尾花が波をうねらせているばかりであった。そんな中,とぼとぼと歩く源翁和尚の耳に,どこからともなく子供の泣き声が聞こえてきた。
源翁和尚は,人家もないこんな原野に子供の泣き声がすることを変に思い,声がする方に近付いてみると,道端の草むらの中に子供がうずくまり泣いていた。
「これこれ,こんな所で何を泣いている? その方の親は・・・。」
と聞いてみるが,子供は変事をしないばかりか,ますます一層声を張り上げ泣きじゃくる。これには源翁和尚も困り果て,このまま道に見捨てて行くこともできず,遂には子供を背負い,近くの人家を探し始めた。
ところが,いくら歩いても人家はもとより作業小屋らしいものも見当たらない。しかも,背に負った子供は次第に重くなっていくようであった。やがて,源翁和尚にも疲れが出て,道から少し入った所に休み石のような手頃な石があるのを見つけ,その石に腰をおろし,しばらくの休息を取った。
体も休まった頃,源翁和尚は腰を上げようとすると,どうしたことが腰が立たない。これはおかしいと振り返ると,背負った子供の足が腰をかけている石にめり込み離れない。おまけに,子供は源翁和尚の肩を押さえつけて立てないようにしている。
源翁和尚は,この子供は人間ではなく魔性の者と考え,口の中で経文を唱えつつ,手にした藜の杖で背中の子供を打とうとすると,一瞬それより早く背負った子供が雑草の中に逃げて行った。それはなんと,金毛九尾の狐の精であった。
それ以来,この腰かけ石には子供の足跡が残り,誰言うともなく「夜泣き石」と呼ばれるようになったという。
2 解説
この話は,殺生石にまつわる後日談という体のものである。砕け散った殺生石の破片が各地に飛び散り,その場でもまた悪さをするという話はいくつか存在しているようで,それだけ九尾の狐というものの妖力というものが強いものと考えられていた証左だと考えられる。