1 概要
昔の沼沢沼の周囲は樹木が鬱蒼と生い茂り昼なお暗く,常に雲や霧に閉ざされていた。
ことに,沼には雌雄の大蛇が主として棲み,近寄る人々に危害を加えたため,人々はこの付近一帯を「霧ヶ窪」と呼び恐れていた。
時の領主佐原十郎義連は音に聞こえた豪傑であり,この沼の話を聞くと,魔性の大蛇を退治し領民の不安を取り除こうと,約5,60人の家来を連れ沼沢沼へと訪れた。
義連は沼のほとりまで来ると,まず部下達に命じて舟や筏を造らせ,自らが先頭に立ち沼の中程まで漕ぎ進め,沼の中に矢を射こみながら,大声を上げ大蛇を罵り騒ぎ立てた。
すると,今まで晴天だった空が,山際から湧き出た黒雲のために忽ちのうちに覆われ,稲妻が走り雷鳴が轟き始めた。それま波静かであった沼には怒涛がさかまき,主従驚き筏の上に伏すと,沼の中から真っ黒な大入道が現れた。
家来達はこれこそ大蛇の化身であると勇気を奮い起こし,手に弓や太刀を持ち立ち向かおうとしたが,なんせ逆巻く波のために舟や筏は木の葉の如く揺られ,はては津波のような怒涛のために飲み込まれてしまった。
これを岸に残り見ていた家来達は,ただれよあれよと右往左往していると,波の中に一本の水柱が立ち,その水柱の中から赤褐色の物凄い大蛇が現れ,苦しげにのたうち廻った。岸の家来達は何事かと見ていると,その大蛇にうちまった一人の勇者がいた。誰かと見ていると,それは領主の佐原十郎義連その者であった。
義連も一度は家来達とともに大蛇に呑まれたが,豪胆な義連は太刀で大蛇の腹を切り裂き外に出てきたのであった。そして,血刀を手にし,蛇の首にうちまたがり悠然としていたので,家来達はこれを見て急に勢いづき,力を合わせてこの大蛇を岸の上に引きずり上げると最後の止めを刺した。
やがて,大蛇の腹の中に呑まれていた家来達も助け出されていたが,彼らは蛇毒のために髪の毛は抜け,肌はただれて間もなく死んでしまった。義連だけは蛇毒からまぬがれ得たのは,常に兜の中に秘めている一寸八分の閻浮壇金(純金)の観音像の加護によるものである。
義連は大蛇の首を切り落とすと,沼のほとりの須崎の上に2mに余る穴を掘らせこの首を埋め,その上に後難排除,住民安堵のための沼御前神社を建て,樵夫を入れて沼の周囲の大木を伐り払わせました。
それからというもの,沼の付近一帯にも陽が射し,田も畑も開かれるようになった。多いに人家も建つようになったので堀内村と名付けられ,その後現在の沼沢という名に改められた。
なお,会津三十三観音十九番目に札所である石塚観音(会津若松市)は,佐原十郎義連の護持した閻浮壇金の観音像を秘仏にしていたと伝えられている。
2 概要
まず。「沼沢沼」の表記についてであるが,現在は「沼沢湖」と呼ばれている(かつては沼沢沼と一般的に呼ばれていたようである。)。
また,別稿にも書いたとおり,沼沢湖にはこの大蛇とは別の主が存在していたとされる。
なお,別稿(沼沢之怪)は江戸時代の話であるが,佐原義連は生没年不明ながら鎌倉時代に活躍し,後に会津を領有した蘆名氏の祖先となる人物であるため,沼沢湖にはこの大蛇が死亡後,別の主が棲みついたのだろうか。
さて,現在,沼沢湖では毎年8月に「沼沢湖水まつり」が行われ,その中で,佐原義連と大蛇の対決を再現しているが,そもそも現実的に佐原義連が会津の地に住んでいたかとなると定かではない(この当時,有力な鎌倉御家人は,所領を鎌倉から遠方に有しいてもその地に下向していた訳ではない。佐原氏が蘆名氏を名乗るのは義連の孫の代とされているが,それすら異説があり,蘆名氏(佐原氏)がいつ頃現実的に会津に住んでいたかについては,不明なのが現状である。)。
令和2年5月6日追記
今回、沼沢湖の写真を撮影したので追加掲載する。
なお、沼沢湖湖畔には上記の「沼御前神社」が現存している。現在はその下付近が釣りスポットとして著名である。