1 概要
享保八年(1723年)4月初めのことである。その日は小雨が降り、月明かりのない暗い夜だった。
大町に住む町人が、用事があり上一ノ町を下り行くと、一ノ町中程から白い浴衣を頭に被った女が、かなりの隔たりはあるが、先に立ち行くことに気が付いた。
この女が大町札の辻辺りに来た時、後ろから見ると、被っている浴衣の下から手を出すように見えたが、その浴衣の下から、松明の光のように明るく光が差した。
雨の夜の事なので、被っている浴衣の内に持っていた提灯の光が見えたのであろうと思い、女の後ろについて下り大町へ出た。女はそれから七日町の方へ行こうとしているが、どうも怪しく思えてならないので、その行先を確かめようと、なおも女の後ろについて七日町へ下った。
女は遥か先を行き、桂林寺町の角、五ノ分の角に立つ。この時、両手は開いており、先程のようにまた光が明るく差し、そこらじゅうがきらきらと輝くほどであった。この時、女は手を叩き高笑いをしていた。
男は、この有様を見て大変驚き、ひき返し急いで自分の家に帰り、誰にも語らず隠していた。
その後、五ノ分から火が出て大町、北小路町、老町、土手の内は六ノ丁、五ノ丁上下も、また、大町より上は一ノ町、上一ノ町、馬場堅三日町、愛宕町、徒ノ町へ延焼し、天寧寺町、浄光寺通りまで焼け、一面焼け野原となってしまった。
後から思い合わせると、かの男の見たのは「火の神」であろうという話になった。
2 解説
会津の年表によると、享保八年4月21日、若松桂林寺町後ノ分長門湯屋忠兵衛宅より失火、一二五六戸を焼亡し,火郭内に及ぶ、とのことで,上記の怪しい女が目撃された後、湯屋(公衆浴場)から失火したようである。この女と失火との因果関係は不明であるが、不気味な話である。