1 概要
「諸家深秘録」(江戸前期の書物)によれば,釜煎は大臣家でなければ出来ない,とある。台徳院様の時代,石川五右衛門という盗賊が三条河原にて釜煎にされたが,これが当代初めてのことである。
蒲生秀行の時代,会津中荒井組,蟹川村平太という百姓がおり,鳥の殺生をよくした。
ある時,白斑の雲雀を本郷河原という所で獲り,家に帰り妻に見せて,この雲雀はとても珍しい,今は小鳥が流行しているので,殿様に差し上げて過分のご褒美をいただこう,嬉しいことだ,と言うと,妻は,今の殿様は渋柿宰相様で,人々は皆疎む大欲無道の殿様である,金雲雀を差し上げてもご褒美をもらえるどころか,百姓の勤めである農業をしないで殺生をするのは不届きであると,いかなる目に遭うか分からない。それなら仙台へ行き,仙台の殿様に売れば,必ずご褒美をもらえるだろうと言う。
平太は妻の言う通り,急いで間道を使い仙台へ行き,仙台中納言政宗へ売り上げたところ,金十五両拝領した。平太は大変喜び,会津へ帰り,妻に,お前の教えに従ったらこのとおりであると金子を差し出し見せてともに喜んだ。
この雲雀は,政宗より将軍家へ献上されたところ,将軍はとても寵愛し,この雲雀は白く類稀な名鳥である,鳴く声もまた大きく素晴らしい,奥州名鳥郡(名取のことか),宮城野の萩の名所の野辺で捕獲したのか,政宗に聞いたところ,政宗は,この鳥は我が領内で捕獲したものではない,若君様は小鳥がお好きなので,もし珍しい鳥がいればお慰みになるだろうと思い,近国へ申し遣わして,会津郡より捕獲したものである,と答えた。
それを聞いた将軍は,会津にこのような名鳥がいるのであれば,秀行の方から献上すべきであろうと機嫌が悪くなってしまった。
この経緯を聞いた秀行は驚き,江戸家老より国家老へ詳細を申し伝わせた。会津にも小鳥殺生の役人がいて,全ての小鳥はその役人へ差し上げる掟であった。国家老の厳しい詮議の結果,ついに平太の罪が悉く現れ,女房の悪事も判明した。そしてついに,夫婦共に大川河原にて釜煎に処せられた。
処刑された場所は平太畑といい,近い頃まで存在していたが,元禄15年(1702年)10月2日の洪水で押し流され,今は河原である。
また,雨が降り暗い夜には,夫婦の幽霊が刑場に現れ泣き叫ぶ様を村人は度々目撃したという,
なお,蟹川村宝光院の過去帳によれば,釜煎ではなく,雲雀を献上した罪で重い刑に処せられた,とあるばかりである。
2 解説
上記で言う将軍は二代将軍徳川秀忠,若君様は徳川家光を差すと思われる。
徳川秀忠が征夷大将軍に宣下されたのが慶長10年(1605年),蒲生秀行が死去したのが慶長17年(1612年)のことである。さらに,徳川家光が生まれたのが慶長9年(1604年)のことで,小鳥を愛でるくらいに大きくなることを考えれば,この話は慶長12~17年の間に発生した話ではないだろうか。
なお,蟹川村とは,現在の福島県会津若松市北会津町蟹川辺りを差すと思われる(宝光院もまた,同場所辺りに現存しているようである。)。
最後に,石川五右衛門は豊臣秀吉の時代に釜茹でにされたと言うのが一般的な話である。江戸時代はまた,違う風説が流れていたのかもしれない。