1 概要
慶長16年(1611年)辛亥7月,蒲生飛騨守秀行卿が只見川で毒流しを行うため,民家に指示し,柿渋や蓼,山椒の皮を集め,これらを搗きはたいていた。
この折,山里に夕暮れ頃,旅の僧侶が現れ宿を借りたが,その際に主人を呼んで,明日,秀行卿が毒流しをするとのことだが,有情非情の生物に命を惜しまないものはない,これに一体,どのような益があるのだろうか,と語り出した。
そして,主人に対し,何卒その筋へ申し上げ,これをとどめることはできないだろうか。魚や亀の死骸を見たところで,秀行卿の慰みにはならないだろう,と切願した。
これを聴いた主人も,旅の僧侶の志を憐れみ,その言葉は至極もっともなことであると感じたが,もはや毒流しは明日と決まり,自分のような賎しき身分の者が申したところで取り上げられないだろう,先だっても,御家老の人々が秀行卿を諌めたがご承知置きなかったと聞いている,と旅の僧侶に話をし,旅の僧侶に対し,柏の葉に粟の飯を盛り差し上げた。
夜が明けると,旅の僧侶は深く愁いた面持ちでどこへともなく立ち去っていった。
さて,払暁,家々より毒類が持ち運ばれ,只見川の川上より流したところ,無数の魚や亀,さらに毒蛇もまた浮かび出た。
その中に,一丈四,五尺程(約4.2~4.5メートル)の大鰻が浮かび出た。その腹はとても大きく太く,村人が腹を裂いてみると,粟の飯が多く出てきた。それを見た,昨夜旅の僧侶を泊めた主人は,村人にその僧侶の話をしたところ,聞く人は皆,さてはその僧侶はこの大鰻が化けて来たものであろうと皆憐れんだ。
この年の8月21日辰の刻,大地震とそれに伴う山崩れが発生し,会津川の下の流れを塞ぎ,洪水により会津四郡が水に浸りかけたので,秀行卿の家臣町野右近と岡野半兵衛は郡内から役夫を集めなんとか掘り開いた。
この地震で,山崎の地に湖水が出来たほか,柳沢の舞台も崩れ川に落ちたほか,塔寺の観音堂新宮の拝殿も倒れた。
そして翌年5月14日,秀行卿は急死してしまう。人は皆,河伯竜神の祟りであると恐れたという。なお,秀行卿は允殿館に葬られた。
2 解説
毒流し(現在は禁止されている漁法である。)を止めるために川の主(今回の場合大鰻だが岩魚の場合もある。)が旅の僧侶に姿を変えて説得に当たるという話は,他地方にも類似するものが伝わるようである。
一般的なニホンウナギは体長約1メートル,最大で1.3メートル(なお,南方に住むオオウナギで体長約2メートル)なので,その大きさがよく分かると思う。
なお,上記の会津地震は直下型地震といい,家屋約二万戸が倒壊,約3700名が死亡したといい,相当の被害を出した地震である。