1 概要
熱塩温泉から北に4Km程奥に入ると,日中という湯治場がある。ぬるいが皮膚病に効くとし,近郷近在に知られた湯治場あった。
昔,この日中の村人の生業は木材を伐り出すことで,山下に留木というものを打ち,山上から伐り落とされる木材をこの木で抑え,一定量に溜まると留木を抜いて木材を川に落とし,川下に運び出していた。
いつの頃からか,ある村に太郎という若者がいた。太郎もまた,木を伐り出していたが,ある時に留木を外した際,つる草に足を取られ落ちてくる木材に巻き込まれ死亡してしまった。
太郎は早くに母を無くし,父と二人暮らしであった。父は太郎の死を嘆き,丁重に葬ったが,葬式も終わると親戚や手伝いをしてくれた近所の人も帰り,家に一人きりになった。語るものもなく,ただ一人涙にくれていた。
ある日の夜半,なかなか寝付けずにいた際に,急に入り口の方で戸の開く音がした。そして,ガラガラと薪を降ろす音がして,「お父,この木を焚いてくらっせ」と,死んだはずの太郎の声が聞こえてきた。父は起きようとするが,太郎は死んだはずだ,夢でも見てるのかも知れないと思い,起きずにその夜は寝てしまった。
翌朝,起きて入り口を調べましたが,戸も開いておらず,また,薪らしいものもなく,父はやはり夢かと得心した。しかし,その日の夜も,昨夜同様太郎が訪れた。父は,太郎が化けて父を欺くとは思えない,狐狸の仕業だろう,わざわざ起きて見るのも癪だと思い,この日も起きずに寝てしまった。
そして翌日の夜,三度太郎が訪れてきた。覚悟をしていた父は,起きて見てみると,葬ったはずの太郎が,白い帷子を着て,ひどく青ざめた顔の額には三角の額紙をあて,髪はざんばらに振り乱し,目はらんらんと輝かせながら部屋の中の様子を伺っていた。
これを見た父には思い当たる節があった。太郎が生前に猫を飼い,次郎と名付けて可愛がっていたが,その次郎が太郎が事故を起こした直前から姿を消していたのだ。父は,和らかな声で「そこに来ているのは次郎ではないのか。今までどこに行っていた,お前が家を出た後,太郎は不慮の死を遂げ,俺は一人残され語り合う者もおらず,毎日さみしい思いをして暮らしていたが,よく無事で帰ってきた。さあ,早く布団に入り寝ろや。」と言うと,太郎の幽霊はたちまち一匹の大きな猫になり,布団の中に入ってきた。父はさらに,「太郎の生きている時とは違い,今は俺とお前だけ。これからは他所に行かないで家の鼠でも取っていてくれ。」と言いながら撫でてやると,猫は心地よさそうに喉を鳴らしながら,四足を投げ出して寝てしまった。
父は猫が熟睡したのを確かめると,自分のふんどしを外し,猫の四足をしっかりと縛り,その端を枕元の柱にくくりつけると,頃合をみて起き出し,大まさかりを持ち出して,「やい化け猫,例え人間でなくても,数年飼われた恩も忘れ太郎の姿に化けて出てその父の俺を化かそうとは何たることか。このまさかりで打ち殺されるのも天罰と思い知れ!」と叫ぶと,猫も猛り狂い父に飛びかかろうとするが,四足を縛られているのでどうにもならない。もがいているところに大まさかりを振り下ろされ,化け猫はしとめられた。
2 解説
上記の日中温泉は,現在の日中温泉とは別の温泉になる。平成3年(1991年)に完成した日中ダムの底に,旧日中温泉が沈んでしまい,現在の日中温泉は新たに新温泉を掘り出したもので,上記の話は旧日中温泉を舞台にした話である。