1 概要
郡山市熱海町と耶麻郡猪苗代町の中ノ沢温泉をつなぐ母成グリーンラインにある峠で,戊辰戦争の古戦場でもある。
慶長4年(1686年),この地に陣地を構築した旧幕府軍約800名と新政府軍約2200名が衝突した戦いで,旧幕府軍側は後に外交官・官僚となる大鳥圭介が,新政府軍側は自由民権運動で有名な板垣退助と後に参議になる伊地知正治がそれぞれ兵を指揮していた。
この戦いは,兵力と武器の性能に勝る新政府軍が旧幕府軍を圧倒,わずか1日で勝敗が決してしまう。会津へ至る重要な峠道の1つである同峠を突破した新政府軍は,一気に猪苗代方面を会津若松へ向け進軍することになる。詳細な戦死者は不明であるが,旧幕府軍側は約50名,新政府軍側はわずか2名であったとされている。
現在,同地には展望台や旧幕府軍墓地(東軍墓地)が設けられているほか,現在も土塁などの陣地跡の遺構が存在している。
しかし,未だ無念の思いが強いのだろうか,この周辺では兵士の幽霊が現れると噂されており,特に,墓地を訪れるとうめき声が聞こえるほか,以前は鎧姿の人物の幽霊の目撃談もあったという。
2 解説
旧幕府軍800名のうち,会津藩兵は約200名,大鳥圭介率いる伝習隊(旧幕府直属の部隊)は約400名,残りは二本松藩や仙台藩,旧幕府軍などの兵で混成されており,もっとも奮闘したのは伝習隊のようで,会津藩兵は伝習隊を置き去りにして逃走したとされている(そのため,戦死者は伝習隊の兵である。)。
本来ならば,自領を守るべく奮闘すべき会津藩兵が逃走し,その代わりに奮闘して戦死した伝習隊兵士の無念はいかほどだろうか。
なお,鎧姿の人物の幽霊が現れるとのことであるが,戊辰戦争時においても,旧式の兵装や戦法にとらわれていた一部の藩では,戦国時代さながらの鎧姿で出陣した藩も存在しているため,さほど不思議な話ではないと思われる。
令和元年9月23日追記
母成峠の写真を撮影したので追加掲載する。
母成峠頂上付近駐車場にある、戊辰戦役の碑。新政府軍約30名、旧幕府軍約800名とするとあり、上記の内容とは異なりがある。いかに新政府軍の武器の性能が高く、かつ士気が旺盛でも、約25倍強の敵を攻略することは難しいのではないだろうか。
峠を下る道路の傍らに入ると、東軍(旧幕府軍)殉難者の慰霊碑がある。
なお、この日、あいにくの天候であったこと、熊が出そうな場所であったこと、そして、慰霊碑という戦死者の眠る場所に安易に足を踏み込むことにためらいがあり、これ以上先には進まなかった。