令和2年9月15日 改訂
1 概要
福島駅から西方約5キロメートルの場所にある大森城は別名「臥牛城」とも呼ばれ,小高い丘陵の上に築かれた城である。いつの時代に築城されたかは定かではないが,戦国時代には伊達実元(伊達政宗の大叔父)が城主となり,その後,実元から家督を譲られた嫡子伊達成実(伊達三傑の一)が城主となる。
その後の変遷が少し複雑であるが,天正19年(1591年),豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏が同地の支配を失うと,蒲生氏,そして上杉氏と支配者が代わり,その上杉氏も寛文4年(1644年)に同地を含む信夫郡を幕府に没収された際に,同城も廃城とされたという。
現在は城山公園として整備されているが,城跡ということもあり,鎧武者の幽霊の目撃談や心霊写真が撮影された,という話が噂されている。
2 解説
私の出身中学校は,同城からさほど遠くない場所にあり,中学時代に一度,課外授業の一環で,同情まで歩いて訪れたことがあった。その頃は上記のような噂は知らず,明るい印象のある整備された小さな城山公園だな,と思った程度であった。
なお,城址らしく,稀に古銭を拾うことができる場合があるという。
さて,鎧武者の幽霊が出てくるということは,同城で何らかの戦闘が行われた歴史があることが前提となる。
この点,資料(史料)等で同城の存在が明らかになるのは戦国時代,上記のように伊達実元が同城城主となる頃のことであるが,ちょうどその頃,実元の父である伊達稙宗と実元の兄である伊達晴宗間で「天文の乱」と呼ばれる内紛が繰り広げられていた。この際,実元は父・稙宗方につき,同城は稙宗方の重要拠点の一つとなったという。天文の乱は天文17年(1548年)に終息,実元はそのまま同城城主に留まるが,この天文の乱の最中,同城を巡る戦いが行われた可能性は否定できないと思われる。
また,天文の乱終息後について,同地を巡るような戦いが行われたか,残念ながら不明である(前線としてよりも,他領への進出拠点という性格の方が強いらしい。)。
ここで現れるとされる鎧武者の幽霊というものは,実元入城以前の合戦で命を落とした者,または天文の乱やその後の合戦に関係する者なのかも知れない。
大森城山公園の案内図。
大森城の遺構の一つ、空濠跡。往時を忍ばせる遺構である。
本丸へ続く広場。夜ともなればかなり暗いと思われる。
本丸跡に残る石碑。館が置かれていたのだろう。
大森城に設置されている看板・石碑塔。
この他、大森村から出征し戦没した兵士を慰霊する慰霊碑が設置されていた。
一見すると墓碑に見える石碑だが・・・。
「福島県十景 大森城山」とある。
大森城周辺には古墳が存在していたらしい。恐らく、古墳の上に築城されたのだろう(古墳の上に築城するケースは多々あるようである。)
なお、同城山には、本丸近くまで車で行くことが可能であるが、そこに至る道はかなり細いため、訪れる際には注意が必要である。