1 概要
八総鉱山は,昭和45年(1970年)に閉山した鉱山で,同地には現在も稼働中の鉱水の中和処理場があるほか,通洞坑や沈殿池などの跡が残されているという。
また,最盛期は小学校が存在していたが,その小学校は本来処刑場と噂されており,この廃校跡地では心霊写真が撮影されると噂されている。
2 解説
八総鉱山は,旧田島町と旧舘岩村(いずれも現在の南会津町)にあった鉱山で,江戸時代末期から採掘が開始,その後,断続的に採掘が行われていたが,終戦後の昭和24年(1949年)から本格的な採掘が開始された。
最盛期である昭和31年(1951年)から昭和36年(1956年)には,鉱山の従業員は500名以上,その家族を含めると2000人以上が居住し,小学校まで設置された。この小学校は,鉱山閉山後の翌年廃校となり,その後,オートキャンプ場などに活用されていたが,平成23年(2011年)に一部を除き解体されている。
さて,この小学校跡地が元処刑場が存在していたとなると,江戸時代末期に使われていたものと推測される。江戸時代,この辺りは南山御蔵入領といわれる幕府直轄地で,旧田島町に陣屋が置かれていたほか,処刑場も同町に置かれていたと伝えられている。
では,この鉱山にも果たして処刑場は置かれていたのだろうか。確証はないのだが,鉱山では,鉱山夫が採掘した鉱石を盗んだりした場合に,他の鉱山夫に見せしめにすることを目的とし,鉱山近くに処刑場を置くケースがあったのは事実のようである。特に,陣屋から離れた同鉱山では,迅速に処理するため,鉱山近くに処刑場が置かれていたのかも知れない(ただし,江戸末期の稼動期間は短いようであり,果たして処刑場が存在していたか,また,処刑された鉱山夫がいたか,真相は不明である。)